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紀元前700年頃に生まれたと言われる金貨だが、その金貨を国家の貨幣制度にまで高めたのは、
リュディア王国(現在のトルコのアナトリア半島)のエレクトロン貨(下図)発行だった。
政府が鋳造権を独占する公認の金貨だから商業活動で安心して使えるという便利さと安心感からまたたく間に近隣諸国にも流通した。
そして、東方の大国ペルシアも公認貨幣というアイデアを模倣してペルシア金貨を中東地域に流通させた。
なかでもディナール金貨(下図)は有名だ。
アレクサンダー大王も公認貨幣というアイデアを模倣して、金貨による通貨制度を帝国全域に採用した。
その後の古代ローマ帝国もそれに続いた。ローマのライバルである同時期のイスラム王朝でも金貨制度は採用された。
金貨は、美しい黄色の光沢を放ち、見栄えがいいこと、希少性があり偽造が難しいこと、柔らかく加工しやすいこと、化学的に極めて安定しており、日常的な環境では錆びたり腐食したりしないこと、などの理由で貨幣の材料として選好された。
均質な金貨であれば、金の含有量に比例して価値が認識され、商業では国境を越えて複数の種類の金貨が同時に使用された。
金貨は東ローマ帝国とイスラムの勢力圏で多く流通したが、東ローマ帝国が発行したノミスマ金貨(ビザント、ソリドゥス金貨とも言われる)は1204年コンスタンチノープルが十字軍の手に落ちて以降、金貨の質が悪化するまで流通した。
その後、1252年のフィレンツェ共和国でフローリン金貨が、ジェノヴァ共和国がジェノヴァ金貨(Genovino)を、1284年にはヴェネツィア共和国でゼッキーノ金貨(ドゥカートまたはダカット:Ducat)と呼ばれる金貨が鋳造され、ノミスマ金貨が持っていた国際決済通貨の地位を引き継いだ。
中世(1000年頃まで)の欧州は政治的に、経済的に不安定な時代であり、人々は金貨を安全保障(何かあったら相手に渡して身の安全を確保する)のため、自国を逃げ出す際のリスクヘッジ(良質な金貨なら外国でも使えた)として貯蔵した。
金貨を発行することは支配地域に商業上の利便性を提供すると同時に通貨の発行益(使いにくい金の延べ棒よりも金貨の方が選好されるために高く評価される)を得られるために、各国の王様は競って金貨を発行した。
信用記録媒体に端を発するお金だが、信用記録制度はどういう進化を遂げたのか
それは次回のお話
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