ウィークリーレポート・マンスリーレポート
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金貨、銀貨は財宝、国家の権威、戦争する際の財源、様々な意味で王様が必死に追い求めたものだった。
だから、戦争の勝者は敗者に対して領土の割譲と同時に金銀財宝を要求するのが常だった。
とは言え、金貨・銀貨には困った点もあった。
1192年、英国のリチャード1世が十字軍の遠征から帰国する途中で神聖ローマ帝国の捕虜となったが、解放のための身代金として2400万枚の銀貨(当時の価値で15万マルク相当)がドーバー海峡を渡った。もし輸送船が沈没したら英国民はもう一度の財貨拠出を強いられていただろう。
1529年、スペインとフランスの戦争で捕虜となったフランスのフランソワ1世だが、彼の釈放の身代金(120万エスクード相当の金貨など)が支払われるまでの間、身代わりでスペインに行った二人の王子は、長期間スペインに留まる羽目になった。
フランスからスペインへは数多くの馬車で陸送したが、到着後のスペインによる品質チェックに4カ月も要した。しかも4万枚の金貨などが低品質であるとして返品され、フランスは追加で送金する羽目になった。
(参考文献: 「ゴールド」 出版社 日本経済新聞出版社 著 ピーター バーンスタイン)
中世のヨーロッパでは金貨や銀貨の端っこを削って貯めて金銀の塊にし、造幣所に持参すれば同量の金貨や銀貨に交換してくれた。それを悪用する輩が多かったので、当時の金貨や銀貨は不良品が大量に存在していたのだ。
そして、大量の現金の輸送は護衛が雇える王侯貴族なら盗賊対策をできたが、一般の商人には無理だった。また船での輸送に関しては沈没による消失のリスクが付きまとった。
なお、中世ヨーロッパの庶民にとって金貨や銀貨は生活商品の売買に使うには高額面過ぎた。
かといって部分的に切り取って相手に渡すわけにもいかなかった。
面倒だというだけではなく、盗難されるとダメージが大きすぎた。
金貨・銀貨はいざという時に持って逃げるため、命の安全と引き換えに渡すため、という安全保障のために貯蔵(=タンス預金)するものだった
さて商行為でルネサンス前後から欧州では国境を越えて大量の商品を売買することが盛んになっていった。ルネサンス期当時は金貨・銀貨で支払うのだったが、徐々に困るようになっていった。
それは次回の話
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